島田叡 に関する時事用語クチコミ情報です。どうぞご活用ください。

島田叡のクチコミ情報

[昭和時代] 沖縄県知事 島田叡
沖縄は見捨てられた、もう知事も来ないだろうと県民は諦めていましたが、翌年の1月31日、新しい知事、島田叡(あきら)氏が赴任して来ます。 神戸二中、三高と野球部で活躍し、当時、大阪府の内政部長を務めていた島田氏は、「俺が行かなければ誰が行く」

[history][book]田村洋三「沖縄の島守」
サブタイトルに「内務官僚かく戦えり」とあるように、沖縄戦当時の島田叡県知事と荒井退造警察部長の動きを追ったノンフィクションです。二人ともその献身的な働きで、内地出身であるにもかかわらず沖縄県民の敬慕を集めたとされる人物ですから、本書で

島田叡
沖縄県知事.

地域から見直す占領改革―戦後地方政治の連続と非連続
また、1945年1月に沖縄県知事に島田叡が就任すると、沖縄県庁の行政は戦時行政に切り替えられ、部課長会議において、 (1)芋の生産に重点を置くが、消費の現状から大家畜をつぶして食料に充てる一方、家畜の減少によって浮く量を、人間の食料にふりむける

Google アラート - 沖縄 20070109
兵庫、沖縄抑え連覇/島田杯テニス沖縄タイムステニスの第2回島田叡杯沖縄・兵庫ジュニア交流会が5 日、奥武山運動公園庭球場で行われた。男女17歳以下、15歳以下、13歳以下のダブルスとシングルスの計18試合で競われ、兵庫が16勝、沖縄が2

『沖縄の島守〜内務官僚かく戦へり』田村洋三 中公文庫
島田叡(あきら)は昭和20年の1月、沖縄県知事に発令される。沖縄戦を目前に控えて決死の覚悟で赴任する。本書はこの島田知事と荒井退造警察部長、二人の内務官僚の沖縄戦が終結する6月下旬までの軌跡を追ったものである。 荒井警察部長は昭和18年の

沖縄戦目録
1945 1月1・12 島田叡大阪府内政部長が沖縄県知事に任命される(1・31単身で沖縄に着く)。※更迭された前知事、泉守紀1・20 大本営が「本土作戦計画」を決定する。閣議で「沖縄県防衛強化実施要綱」が決定される。 1・~3・ 第32軍が現地第2次防衛召集を

[Book]沖縄の島守
とは、よう言わん」 第二十七代沖縄県知事・島田叡 1944年米軍の沖縄上陸の可能性が囁かれ、 その危機が現実となり 多くの沖縄県民が災禍に巻き込まれるなかで 牧民官として県民を一人でも多く救おうとした島田叡あきら 沖縄県警察部長として前県知事や

「顕彰」はする、でも「慰め」にはしない
これは、戦争末期、沖縄で最後まで奮闘した島田叡(あきら)沖縄県知事と、荒井退造県警部長という二人の「文官」の足跡を、生き残った周りの人々の証言から再構成したもので、非常に感銘を受けました。ちなみに田村さんは、同じく沖縄戦で自決した海軍

沖縄県
島田叡 米軍統治下知事志喜屋孝信 沖縄群島政府知事平良辰雄 臨時琉球中央政府行政主席比嘉秀平 行政主席比嘉秀平 当間重剛 大田政作 松岡政保 屋良朝苗(公選によって選ばれた) 歴代公選知事屋良朝苗 平良幸市 西銘順治 大田昌秀 稲嶺惠一(現職)

沖縄の島守
沖縄の島守 内務官僚かく戦えり 田村洋三 中央公論新社 中公文庫 2006年7月25日 初版 島田叡。 沖縄県知事。 米軍沖縄攻撃2か月前に赴任。 荒井退造。 沖縄警察部長。 島田とともに20万県民の命を救う。 1945年夏、摩文仁の丘で消息を絶つ―沖縄戦後、58

学徒隊動員 沖縄戦の「鉄血勤皇隊」編成、県が主体的役割
さらに覚書や添付文書によると、14?17歳の学徒に対し召集に備えた書類を作成するよう命じており、島田叡知事(当時)が学校を通じて集めた学徒の名簿を軍に提出し、それを基に動員する手順を明記。兵役を命じる防衛召集は当時、17歳以上が対象

繁多川のガマ「県庁壕」
島田叡。沖縄県知事。米軍沖縄攻撃二か月前に赴任。荒井退造。沖縄警察部長。島田とともに二〇万県民の命を救う。一九四五年夏、摩文仁の丘で消息を絶つ―沖縄戦後、五十八年目にして発掘された新事実。 内容(「BOOK」データベースより)

とんぼ返りの沖縄出張
追記:沖縄県公文書館の広報冊子に、敗戦直前の沖縄県知事島田叡(あきら)氏のそばにいた方のインタビューが載っていました。現在御年88歳。その方も島田知事を大変褒めていたので、帰宅後、中野好夫の「最後の沖縄県知事」(『中野好夫集』Ⅷ、

ヒストリー・オブ・バイオレンス
沖縄戦二ヶ月前に沖縄に赴任した島田叡県知事と、その一年ほど前に赴任し、島田知事を支えた荒井退造警察部長の男泣きドキュメント。映画「沖縄決戦」と合わせて読むと、いっそう興味深い。当時沖縄軍司令部の参謀だった八原博道や神直道の手記もすごく

間違った認識
アメリカ軍上陸が間近に迫った沖縄に県知事として赴任した島田叡(しまだあきら)は「食料調達」や、県内外への「疎開」に奔走し、たくさんの沖縄県民の命を救った人物として、沖縄ではよく知られている知事です。 彼は兵庫県の出身です。

[読書]沖縄の島守~内務官僚かく戦えり
太平洋戦争 末期激戦の中尽力を尽くした島田叡 沖縄県 知事と荒井退造警察部長、二人の内務 官僚 を追った評伝。彼らの献身的な態度はもちろん素晴らしいのだがそれと対比して描かれる前任の 沖縄県 知事他地上戦が始まる前に 沖縄 から逃げ

読書2点「ざわわ ざわわの沖縄戦」「沖縄の島守―内務官僚かく戦えり」
荒井退造警察部長と,前任者の「逃亡」により生きて帰れる望みがほとんどないと知りつつ1945年1月に沖縄県知事になった島田叡(あきら)氏。この二人の話です。 内心では内地への異動を望みながら,職務を全うした荒井警察部長,最後まで住民のことを考え

2006年9月
2006年09月10日 『沖縄の島守~内務官僚かく戦へり』田村洋三 中公文庫 島田叡(あきら)は昭和20年の1月、沖縄県知事に発令される。沖縄戦を目前に控えて決死の覚悟で赴任する。本書はこの島田知事と荒井退造警察部長

軍、県、学校が一体となって子どもたちを戦場に送り込んだ
召集は旧日本軍による一方的なものではなく、当時の島田叡知事や教育現場が深くかかわっていたことを今回の公文書は暴露した。 軍と県一体に衝撃/鉄血勤皇隊編成文書(沖縄タイムス2006/10/29) 学徒動員

沖縄戦の学徒動員、県が主体的役割!?
さらに覚書や添付文書によると、14-17歳 の学徒に対し召集に備えた書類を作成するよう命じており、島田叡知事 (当時)が学校を通じて集めた学徒の名簿を軍に提出し、それを基に動 員する手順を明記。

米軍上陸 part2
朝令暮改である・・・その様な中、1月20日に海軍司令官の大田實が着任、1月31日には沖縄県知事島田叡が着任した。二人とも、死地と覚悟しての赴任である。 島田知事は、残された僅かな時間で最後まであきらめず、2月21日に食料確保のために空路台湾に旅たち

またまた連鎖
内容は、沖縄戦のわずか2ヶ月前に大阪の内政部長から、官選最後の沖縄知事に赴任した島田叡(あきら)氏と、栃木出身で2年間沖縄県警察部長を務め、島田と運命を共にした荒井退造氏の評伝である。 読み進めると、本土決戦のための捨石にされ

晴歩雨読
雨にけぶる八幡平を眺めながらの 読書三昧 持ち込んだ本のひとつが、これ 兵庫県出身の沖縄県知事、島田叡 地獄の戦場と化した沖縄で、県民の命を救うことに命をかけた 恐ろしく困難な状況の中で、人々を守ることに命をかけて働いた人たちがい

[Book]沖縄の島守
第二十七代沖縄 県知事 ・ 島田 叡 1944年 米軍 の沖縄上陸の可能性が囁かれ、 その危機が現実となり 多くの沖縄県民が災禍に巻き込まれるなかで 牧民官として県民を一人でも多く救おうとした 島田 叡 あきら 沖縄県 警察 部長 として前 県知事 や内政 部長

沖縄決戦人事part16
第二十七代沖縄県知事・島田叡は、その日のうちに沖縄に着任した。沖縄県庁は現在とほぼ同じ場所であった。しかし、前任のI県知事が普天間(那覇の北約15キロ)に県庁を移し、さらには昭和19年暮れから東京出張から帰らなかった。

沖縄決戦人事part12
(沖縄県知事) 島田叡(兵庫県出身)  一昨年だったか(?)春の選抜で優勝した沖縄尚学高校の体育館で、戦中・戦後の写真展が 僅か2ヶ月ほど前に着任した、沖縄戦最後の県知事島田叡は県政を確かに機能させていたのである。当時

沖縄決戦人事part11
県民に対する配慮を述べたものであるが、実は、この電文が最初でなく、大田司令官より11日遅れで着任した島田叡知事に頼まれ、4月16日に逼迫した状況を内務大臣宛に送っている。  防衛庁防衛研究所が所蔵している「昭和20年6月 南西諸島方面電報綴」によれ

沖縄決戦人事part4
元毎日新聞社記者の作家田村洋三氏が、沖縄県庁の島田叡知事や荒井退造警察部長のことを紹介している著「沖縄の島守」に、長参謀長のエピソードが記されている。  長は人を驚かす奇行に富み、数々のエピソードを持つ陸軍の‘名物男‘である。

10 沖縄戦と最後の官選知事 島田県知事
1945年1月31日(米軍上陸2ヶ月前)に泉前知事の後任、島田叡県知事が着任した。  この島田知事は内務省から誰も沖縄県知事になりたがらない事を知り沖縄県民のために  自ら名乗りをあげた人である。

6月23日は・・・・
島田叡(あきら)という人がいる。島田叡さんは沖縄戦中最後の沖縄知事である。 戦前の知事は選挙で選ばれるのではなく、内務省から任命される役職だった。 神戸の須磨出身の島田さんは、東京帝大卒業後にさまざまなポストを勤め

61年前の5月の沖縄
沖縄県知事の島田叡は「首里を放棄して南端の水際まで下がるとすれば、南下した住民が戦火に巻き込まれ、県民の犠牲が大きくなる」と首里放棄に反対したが、軍はこれを受け入れず沖縄での抵抗を一日でも長く継続する軍の論理を優先した。

“沖縄独立論”は酒のサカナか?
かつては島田叡のように 命がけで職務に取組んだ知事もいたのですが 土地 成金の政治ごっこや自民党の犬的代議士、 議員収入を当て込むバカ議員は、 「消去・削除」できないものなのでしょうか 沖縄人は、昼間の会議ではほとんど発言がないのですが

繁多川のガマ「県庁壕」
島田叡。沖縄県知事。米軍沖縄攻撃二か月前に赴任。荒井退造。沖縄警察部長。島田とともに二〇万県民の命を救う。一九四五年夏、摩文仁の丘で消息を絶つ―沖縄戦後、五十八年目にして発掘された新事実。

最後の県知事(後編)
(前回のおはなしの続き) 沖縄へ渡った彼(島田叡)は,沖縄の人たちのため懸命に働きました。 食料を確保するため台湾へ行き,子供たちを内地(本土)へ疎開させ,本島に残った人たちを島の北部にあるなるべく安全な場所へ移動させました。

最後の県知事(前編)
その人物の名は「島田叡(あきら)」。当時43歳だった彼にだって,もちろん沖縄に行くことの危険性は分かっていました。当然家族や周りのみんなも大反対です。 しかし,彼は沖縄行きを反対する人たちを前にして力強く言ったのです。

内務官僚の栄光と破滅
余談であるが、公務員を目指しているとき、終戦時の沖縄県知事で「島田叡」という内務官僚のエピソードを聞いて、こういう人物になりたいと思わされた。  この人物、米軍上陸必至であり「赴任すれば死ぬのは間違いない」という状況の沖縄県へ

「顕彰」はする、でも「慰め」にはしない
これは、戦争末期、沖縄で最後まで奮闘した島田叡(あきら)沖縄県知事と、荒井退造県警部長という二人の「文官」の足跡を、生き残った周りの人々の証言から再構成したもので、非常に感銘を受けました。

米軍基地縮小の手段
デイゴの花が咲き始めましたが今年も昔の様な真っ赤なデイゴ並木は期待出来ない様です。所々で10本程度並んで咲き揃うと思いますが全体的には葉っぱを付けたままの木も残って残念です。

【ある知事】
その当時大阪府の内政部長から沖縄県知事に赴任した島田叡(しまだ・あきら)は最後の官選知事でもあった。  米軍の沖縄攻撃を目前にして、島田の前任知事泉守紀は出張名目で沖縄を脱出して汚名を残した。

沖縄慰霊の日に寄せて
1901年現神戸市須磨区に生まれた島田叡(しまだあきら)さん。 旧制神戸二中、旧制第三高校を経て東京帝大へ進み、内務省に勤務。 1945年1月末。島田さんは、沖縄県最後の官選知事として赴任しました。

沖縄の旅 その3 島守の塔
最後の沖縄県知事、島田叡氏は1901年12月25日に現在の神戸市須磨区に生まれました。旧制神戸第二中学、現在の兵庫高校に進学し、旧制第三高校から東大法学部に進み 「島田叡が守ろうとした沖縄のために何かしよう!」と募金活動が始まり

対馬丸~さようなら沖縄~
泉の敵前逃亡から昭和二十年一月三十一日に新任の県知事として島田叡氏が沖縄に着任するまでの約一ヶ月間、沖縄県行政はほとんど停止状態に陥ったのである。  米国の戦争犯罪を追及することなく

インデックス

つくばエクスプレス・他
スクランブル化・他
テポドン・他
ピュリツァー賞・他
中高一貫校・他
保護処分・他
北関大捷碑・他
地下鉄サリン事件・他
希望枠・他
政策委員会・金融政策決定会合・他
東シナ海ガス田問題・他
消費者団体訴訟制度・他
硫黄島の戦闘・他
自動化ゲート・他
量的緩和政策・他

スポンサードリンク